2009年06月27日

我がふるさと”筑豊のなりたち”(『筑豊原色図鑑』より)

僕のふるさとの歴史を自分で総括したものです。

小出しにしないで全文を掲載します。

もう10年前に書いたものだから多少の不満はありますが、誰にも文句は言わせないとの思いは今もあります。

まあ、自分の好みで、たぶんに自己満足的です。

長い文章ですが、お暇なときにお読みいただければ幸いです。



筑豊のなりたち


筑豊誕生

筑豊の歴史は、遙か人類誕生以前の太古の時代から、すでにそのスタートを切っていた
のではないだろうか。
世界のエネルギー源が石炭から石油に変わるまで、日本の近代化を促し今日の発展の基
盤を作ることに貢献した我国最大の動力庫〈筑豊炭田〉の存在の大きさを考えると、どう
しても太古の時代まで遡ってしまいたくなる。
地球に生命が誕生したのが三十億年以上前、日本列島のほとんどが古生代まで海底にあ
り、中生代に一部が海面に現れ、新生代に大陸と地続きとなり、数度の氷河期を境に大陸
とくっついたり離れたりしながら現在があるという。
このような地球的環境の中で、太古の筑豊は珊瑚礁の海だったようだ。
その証拠を香春岳に見ることができる。白い岩肌がむきだしになった独特の山容を持つ
香春岳は、珊瑚礁が気の遠くなるような年月を経て全山が巨大な石灰岩の塊になった山で、
万葉集にも歌われ小説や映画でもたびたび取り上げられ全国的によく知られている。
また、今も赤村の谷川にはオオサンショウウオが生息し、筑豊各地の水田にはカブトエ
ビが泳ぐが、どちらも数億年前の古生代の生きた化石だといわれている。
太古を代表する生き物が恐竜だとしたら、九州北部が中国大陸とつながっていたとみら
れる一億二千万年前の中世代白亜紀前期、筑豊には体長十数メートルもある肉食恐竜が咆
哮していた。
平成二年二月、筑豊全体に流域を持つ遠賀川の支流八木山川の千石峽で、世界でも珍し
いといわれる肉食恐竜(ワキノサウルス)の歯の化石が発見され、筑豊発のトップニュー
スはたちまち全国をかけ巡り、夏のキャンプシーズンでもないのに大勢の人々が手にトン
カチを持って渓谷に押しかけた。
筑豊の火山活動も活発だったようだ。英彦山の岩にも当時の溶岩の名残りがあり、山田
市の摺鉢山(帝王山)は火山だったという。庄内町の見上ゴルフ場造成の時には、古い火
口の穴にブルドーザーがしばしば落ちて動けなくなったという話もある。
新生代第三紀、石炭紀の植物層とはだいぶ違っていただろうが、筑豊は大植物時代を迎
えることになった。日本の石炭のもとになったといわれるメタセコイアの巨木群が、遠賀
川流域一帯を厚く覆っていたに違いない。
メタセコイアは筑豊のいたるところで見ることができる美しい大木で、巨木群が数千万
年という時間を経て硅石から石炭に変化し燃える石となって、やがて独特の色の炎を放ち
ながら日本の歴史に登場してくることになる。
だが、地中深く堆積した太古のメタセコイアが、人間と相まみえるのはずっとずっと後
のことで、まだ人類の歴史さえ始まっていない。
新生代終りの数百万年前、人類の最も古い祖先だと言われているアウストラロピテスク
が現れ、数十万年前には、ジャワ原人や北京原人に続いて日本にも明石原人のような原人
が存在したのではないかと推測され、四・五万年前、やっと現代人のような形態と能力を
持った人間が登場してくる。
では、筑豊にいつの頃から人が住み、生活を営み始めたのだろうか。
残念ながら、まだ解明されていない。ただ、穂波町久保白ダムの建設のとき、消滅する
運命にあった森原の前方後円墳の調査が行なわれ、古墳の盛土から旧石器時代に属する石
器が出土して話題になった。しかし、盛土は運ばれた土であり、何処の土を運んだかが不
明であり、また、ただ一つの資料だけで旧石器時代を語ることはできない。


文化のめばえ

一万年ほど前から始まった縄文時代、日本全国で人々の生活が営まれるようになった。
縄文時代の筑豊は遠賀川に大きく海が入り込み広い入江になっていたと思われ、筑豊で
も遠賀川流域一帯で縄文時代に属する人々の生活が営まれていたようだ。
海岸線にあったと思われる直方市や鞍手町では、天神橋貝塚、扇橋貝塚、古月貝塚、新
延貝塚などが発見され、貝類とともに多くの遺物が調査されている。
飯塚市付近では遠賀川川床から遺物が採集されたり、赤池町の山崎遺跡では石鏃が検出
され、田川市でも石器類や遺物が出土し、縄文人の生活圏は遠賀川上流にまで及んでいる。
嘉穂町や穂波町でも縄文時代の住居跡が発掘されて多くの遺物が検出され、筑穂町の北
古賀遺跡からは石器などとともに石垂(網の重り)が発見され、当時魚網による漁労が行
なわれたことが推測されている。
また、流域は異なるが今川水系でも、英彦山山麓(標高550ー600メートル)のズ
イベガ原遺跡で石器や土器片が採集されている。
日本に大陸から稲作が渡来した二千年前、この稲作がまず定着したのが北部九州で、稲
作文化によって日本は大きく変化していった。そしてこの時代の生活土器に遠賀川式土器
の名がつけられた。
弥生時代の遺跡は筑豊全域に広く分布し、その頂点に立つのが飯塚市の立岩遺跡で、昭
和八年から五〇年間以上にわたる発掘調査で常に新しい情報を提供し続け、弥生時代の解
明に貢献してきた日本を代表する遺跡として知られている。
立岩遺跡から出土した十面に及ぶ前漢鏡は日中交流を物語り、ほぼ完全な状態で発掘さ
れた人骨は腹部に銅戈を置き、右腕には貝輪(ブレスレット)を着装し、これらは南の海
との交易と同時に貴人としての階級発生を物語っているという。
また興味をそそられるのは、「石器の立岩」といわれる立岩で生産された、自家消費を
遙かに超えるといわれる膨大な数の穂摘み具・石包丁だ。
立岩で生産された石包丁は、佐賀県の吉野ヶ里遺跡からも出土しており、西日本一帯に
拡がっているという。このことは、この時代の長い時間の中で鉄器をまねた石包丁がある
ことで立岩の後進性も指摘されているが、それにしてもエリアを超えた石包丁の数の多さ
から、立岩人が笠置山で原石を採集し、立岩で加工した石包丁を、不特定多数に広く商い
していたものと推測されている。
この時代から、何につけ商売に敏いといわれる飯塚人の祖先らしい、ちゃっかりぶりが
想像できておもしろい。
ちなみに、この時代の日本を記述した『魏志倭人伝』に、邪馬台国への道筋に不弥国と
いう地名が出てくるが、この不弥国は立岩遺跡があったところではないかといわれている。
古代の出土品に謎が多く、特に銅鐸には謎が多いという。
銅鐸は近畿地方を中心として出土し、銅剣・銅矛は九州・中国・四国地方に多く出土し
ているが、時代的には銅剣・銅矛のほうが古いことから謎になるようだ。
銅鐸の謎は、銅剣・銅矛を持った九州人が近畿に上って銅鐸をつくたという説と、想像
力豊かな近畿人が銅剣・銅矛をつぶして銅鐸を作ったという説が真向からぶつかって、こ
の論争が後の大和朝廷を誰が作ったかということにからんでくるから、そう簡単には明ら
かにならないという。
嘉穂町の原田遺跡(弥生時代中期から後期)から出土した有文小銅鐸を持ち出すまでも
なく、前者の説のほうが説得力があるように思えるが・・・。


絢欄たる装飾古墳

現在でも、中国の史書『魏志倭人伝』に記されている邪馬台国がどこにあったのか、そ
のことすらはっきりしていないのが日本の歴史である。
日本の古墳は、『魏志倭人伝』が卑弥子の死を記したころあるいは少したったころから、
三世紀から四世紀にかけて大和を中心に前方後円の巨大な古墳が作られはじめ、やがて全
国各地に広がっていったという。
このころの日本には文字がなく、後に書かれた『古事記』や『日本書紀』が大和の大王
の都合がよいように書かれているとしたら、千数百年前に莫大な時間と人員を費やして築
造された古墳は大きな歴史の手がかりである。
筑豊は古墳時代の遺跡も多く、古墳の宝庫だといえる。
特に桂川町の王塚古墳は、奈良県明日香村の高松塚古墳とともに国の特別史跡に指定さ
れ、日本の装飾古墳の中で超一級の装飾古墳である。
六世紀に築造された王塚古墳は、全長八六メートルで最も広い前方部の幅が六〇メート
ルあり、その周囲に濠と堤防が巡らされた遠賀川流域最大の前方後円墳で、横穴式石室の
壁面全面に赤、黄、緑、黒、白の五色を用いて、向かい合う騎馬隊やマジカルな図文が描
かれていて素晴らしい。
また王塚古墳は、見事な壁画の芸術的質の高さもさることながら、大和朝廷の朝鮮出兵
に反対した八女の磐井の乱(五二七年)の後の時期の古墳として、日本古代史の中でも注
目されている。
日本書紀巻十八にも安閑天皇二年(五三五年)、筑紫に穂波・鎌を、豊国に勝碕・桑原・
肝等・大抜・我鹿の屯倉が設けられたことが記されているように、磐井の乱の後、大和朝
廷はかつて磐井の支配下にあった地域に数多くの屯倉を設置して、その支配の楔を打ち込
んでいったといわれている。
王塚古墳の被葬者が磐井にゆかりのあった有力者だという見方もあるが、周辺の穂波町
の忠隈古墳、稲築町の冲出古墳、飯塚市の赤坂古墳や菰田辻古墳などが形式・出土品から
畿内式古墳と見られることから、穂波屯倉の管理者(強大な権力者)が王塚古墳の被葬者
ではなかったかとも想像され、今後の研究が待たれる。
若宮町の竹原古墳(国指定史跡)も日本を代表する装飾古墳である。
中国や朝鮮半島の影響を受けているといわれる壁画には、一対の団扇のような翳と馬を
牽く人や連続三角文、その上に目を怒らせ赤い舌を出した怪獣が黒と赤の二色を使って力
強く描かれ、中国の四神信仰や龍媒伝説などいくつかの解釈があって興味を魅かれる。
また、鞍手町の古月横穴(国指定史跡)をはじめとして筑豊各地の崖などに「〇〇百穴」
と呼ばれる墓が見られるが、これらは大きい墳丘もないのでこれまで貧しい人々の共同墓
地と考えられてきた。しかし、丘陵のふもとからの墓道も作られ副葬品も豊かで当時の朝
鮮との関係も見られることから、貧しい人の墓というより渡来人など異文化の墓ではない
かという説が筑豊から提起されている。
いずれにしろ、日本の装飾古墳の多くが九州に集中している背景の中で、この時代の歴
史の一端を解き明かす意味でも、王塚古墳をはじめとする筑豊の古墳の存在は大きい。
古墳ではないが、頴田町の鹿毛馬神籠石(国指定史跡)もこの時代の謎を含んでいる。
七世紀ごろ造られたという鹿毛馬神籠石は、この地に誰が何の目的で造ったかはわから
ないが、丘陵の頂上を取り巻くように切断した一八〇〇個の巨石を二キロほど並べて列石
とし、低地に水門を二カ所設けている。
山城説、霊域説、牧場説などいろいろな説があり、今では山城説が有力視されていると
いうが、この時代の地方がおおむねそうであるように、全てが謎に包まれているといった
ほうがよさそうだ。


万葉の時代

筑豊には、万葉集の歌が一〇首ある。
万葉集は今から千三百年前に編纂され、全二〇巻に天皇から庶民まで四五一六首がおさ
められており、質量ともに日本が世界に誇る文学である。
『しろがねも くがねも玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも』
(万葉集巻五 山上憶良)
山上憶良は筑前国守として嘉麻郡に赴任し、神亀五年(七二八)七月二一日、稲築町鴨
生あたりにあった郡役所で、有名な『子らを思う歌』を含む嘉麻郡三部作を選定したとい
われている。
貴族だけが人間だったような時代に、貴族でありながらいつも弱者の立場に立ち、身近
な者の情愛を歌い貧窮者や遭難者の悲哀を歌い、はたらく農民漁民の声を芸術にまで高め
てきたのが憶良であり、その存在は万葉集のなかでもひときわ大きく輝いている。
この数百年の日本は、大陸の文化に影響を受けながら、歴史の檜舞台では聖徳太子や中
大兄皇子の活躍にはじまる建国の時代である。
強大な権力を持つ大和朝廷の本拠地が飛鳥から藤原京へと推移し、「咲く花のにおうご
とく」と歌われた広大な平城京が造られ、大陸に遣唐使が派遣され仏教など新しい価値観
が導入され、ピラミッドに匹敵するような奈良の大仏が建立され、明るさと不満が同居す
るなかで都が平安京に移される。
奈良時代が大陸文化の時代なら、平安時代は日本文化の時代であり、藤原氏の時代を迎
えて日本的文化の確立がはじまるという、まさに本格的日本誕生というダイナミックな時
代の勢いが感じられる。
この時代、筑豊はある意味で中央とダイレクトに結ばれており、奈良東大寺の大仏建立
に貢献するなど、一地方としては飛び抜けて開けた場所ではなかったかと想像される。
磐井の乱の後、大和朝廷がこのあたりに直接支配のための屯倉を数多く設置したことか
らわかるように、肥沃な土地ともに大陸との接点の後背地として重視していたこと。全国
で唯一の太宰府政庁と同じく全国八幡宮の総社宇佐八幡宮を結ぶ太宰府官道が通り、瀬戸
内海の水路を通じて中央との行き来が活発であり、交通の要衝だったことなどから容易に
想像できる。
大陸からの渡来人とその技術がいち早く入り、香春の採銅・精錬技術は高く一説には大
仏に使われた銅の70%が香春のものではなかったかといわれ、今も採銅所駅や採銅所小
学校などの名前が残っている。
千数百年前の太宰府官道とは、大陸と中央の珍しい文物と同時に人が情報が行き交う道
とは、当時の筑豊の人々にとって今でいう「インターネット」のようなものではなかった
ろうか。官道沿いには、新羅式、百済式、高句麗式などの優れた瓦が出土した筑穂町の大
分廃寺塔跡(国指定史跡)や田川市の天台寺跡があり、数頭の馬をおいた駅が伏見(穂波
の高田)、綱別(庄内の綱分)、田河(香春)などに設置され、大いににぎわっていたの
ではないかと想像される。
また、この頃から遠賀川の水路は開けていたようだ。
太宰府観世音寺は斎明天皇の冥福を祈るために造営されたが、この造営にあたって嘉麻
郡碓井郷・鞍手郡金生郷各五〇戸が造営費の財源として当てられ、碓井の米が遠賀川をく
だって観世音寺に運ばれたという。平安時代に観世音寺が奈良東大寺に属すると、碓井の
米は遠賀川から瀬戸内海を通って、奈良の東大寺に運ばれたという。


中世・修験道の時代

霊峰英彦山の歴史は深い。国立公園の久住や阿蘇の山々もいいが、国定公園の英彦山が
持つ人間の歴史の深みは感じられない。
英彦山は、享保一四(一七二九)年に霊元法皇より銅の鳥居(国指定重要文化財)の勅
額を「英彦山」として下賜されて、以後彦山を英彦山と書くようになったが、英彦山の開
山は五三一年と古く、日本史のなかで筑紫の国造・磐井が任那救援の大和朝廷軍を遮り反
乱を起こしたのが五二七年で、聖徳太子が生まれる四〇年も前のことで改めてその歴史の
深さに圧倒される。
また、英彦山は比叡山に準じた処遇を受けて、天台系の修験道の彦山派を起こし独自の
発達をとげたといわれるが、後の時代に織田信長によって焼き討ちになった比叡山のよう
に、強大な権力と財を持っていったということでもあった。明治の神仏分離令によって霊
仙寺が廃寺となっても、英彦山とその周辺にはほかでは見ることのできない国宝級の文化
財が数多く残っており、そのことは筑豊の歴史に豊かな厚みを加えている。
貴族政治に終止符が打たれ武士の時代になっても、社寺進出・荘園経営のなかで、筑豊
各地は大きく拓かれていったと見られるが、日本全土に大きい影響を及ぼした前後二度に
わたる蒙古襲来では、防塁築造などに多くの人々が動員させられ多大の労苦を強いられた
ことだろう。
また蒙古軍との戦いは、一生懸命働いた武将にとって恩賞が貰えぬという不満を残し、
鎌倉幕府衰退とともに南北朝争乱を迎えることになり、この争乱に筑豊各地も南北に別れ
て巻き込まれていく。
天皇側に追われて九州に落ちた足利尊氏は、赤池町の上野にある興国寺を拠点に態勢を
立直し、北部九州の武将の支持を受けて多々良浜で菊池軍を破って東上し、湊川で楠木正
茂の軍を破って都に入り、やがて室町幕府を開くことになったという。なお、足利尊氏は
後に全国に一寺一塔を設けるが、興国寺は豊前国安国寺と定められ、筑前国安国寺は山田
市に置かれた。ちなみに、直方や秋月・千手氏や稲築八幡宮などは天皇方、土師・内山田・
上山田などの在地武将は北朝方にそれぞれ属していたようだ。
筑豊に茶の湯、生け花、連歌、能、狂言、水墨画、石庭などの東山文化が持ち込まれた
のは、応仁の乱をきかっけに日本が戦国時代に突入していってからのことである。
雪舟と連歌師の飯尾宗祇は、破壊された都を離れて地方の有力者を頼って移り住んだ多
くの文化人のなかで、このころ筑前一帯にまで勢力を張っていた中国の大内氏を頼り、こ
の間に筑豊各地を訪れた足跡が残っている。
川崎町の藤江氏宅庭園魚楽園(国指定名勝)と英彦山亀石坊庭園(国指定名勝)はとも
に雪舟の庭園といわれ、宗祇は筑穂町の長尾で連歌会を催している。なお中元寺川沿いに
は古い庭園が多く、英彦山修験道館横の庭園及び各坊の庭園、大瀬子の里の庭園、山田常
盤館の庭園など東山文化が早くから広まっていたと思われる。
戦国の世を統一した豊臣秀吉と筑豊は因縁浅からぬ関係である。天下人秀吉は、秋月・
島津勢を攻めるとき豊臣勢に協力(有名な一夜城)した嘉穂町大隈の住民に、その恩賞と
として陣羽織(国指定重要文化財)と書状を与えたが、朝鮮出兵ではこの地に遠州七窯と
いわれる筑前高取焼と豊前上野焼をもたらした。この二つの名陶は、統一後に筑前は黒田
長政が、豊前は細川・小笠原両氏が領有しており、連行された朝鮮人陶工によって誕生す
る。


彦山修験道の時代

彦山は大峰山、出羽三山とともに日本三大修験道場として知られる山伏たちの修行の霊
峰であり、開山は継体天皇二五(五三一)年に北魏の僧善正が彦山に入山したときと伝え
られている。
平安時代になって、嵯峨天皇は弘仁一三(八二二)年に勅をもって日子山を改めて彦山
とし、彦山霊仙寺は勅願寺として比叡山に準じた処遇を受けるようになり、寺領は七里四
方で豊前・豊後・筑前の三国にまたがり、領域内には大行事社が置かれて彦山領を明示し
た。また「九州の万家をもって檀越(檀家)として」各地に末寺・末坊があり、彦山山内
をはじめ三千の坊舎が置かれたという。
本来、彦山は神霊崇拝の山岳信仰で、それに仏経が習合したものである、それゆえに彦
山での諸行事は神事と仏事それに修験道独特の行事が行なわれてきた。
山伏たちの修行の主なものは「峰入り」と「窟修行」である。峰入りは密教の曼陀羅世
界を象徴する山々を修行の場と考えるもので、彦山々内を胎蔵界に、宝満山を金剛界とす
る春峰では、二月一五日から彦山に入り四月一〇日で入峰修行を終わる。福智山を金剛界
とする秋峰は七月三〇日から九月四日で終わる。いずれの峰入りにも、その行程のなかに
は行場や宿泊場所となる四八カ所の宿が置かれ、水行、角力、のぞき、それに一晩中の読
経などさまざまな行を重ねながら往復する。春峰では胎蔵・金剛両界の交わる蘇悉地の深
仙宿(小石原)の護摩檀や行者堂、秋峰の宿では岩屋権現(方城町弁城)には磨崖梵字曼
陀羅など貴重な修験遺跡が残され往昔をしのぶことができる。
窟修行は岩窟に籠って読経と瞑想を続ける胎内修行で、窟に籠ることは母の胎内に帰る
こととみたてて行をかさね、仏心をえて再び蘇生することを目的としたものである。こう
した修行窟を彦山々内では弥勒菩薩の住む兜率四九院を擬して四九の窟を示している。般
若窟(玉屋神社)や豊前窟(高住神社)はその代表的なものである。


文化の道、物資の道

徳川家康が江戸に幕府を開き、やがて将軍職は秀忠・家光と受け継がれるが、幕府の基
はゆるぎないものになっていった。
黒田長政は、筑前五二万石というのは表向きで実際はそれより少なかったという石高を
増やすために、遠賀川流域の広い平野に目を着け治水工事になみなみならぬ力を注いだよ
うだ。
遠賀川の治水工事は流域のいたるところで行なわれ、堀川の運河などは長政の死後二〇
〇年もたって完成するが、完成によって米の収穫高が四倍とか八倍になったところもあっ
たという。そして、冷水峠の開通とともに長崎街道が整備され、筑前六宿(黒崎、木屋瀬、
飯塚、内野、山家、原田)が置かれた。
長崎街道は、諸大名の通る参勤交代の道として、鎖国令以後は唯一世界に開かれた長崎
と江戸を結ぶ道として、多くの人と文物が往来した文化の道である。数百人から数千人に
も及ぶといわれる大名行列が通るときは、道筋の住民も助郷の制度で荷物輸送のために動
員されたりして大変だが、シーボルトなどの外国人や将軍に献上される象・らくだ・孔雀
などの珍しいものが通って人々を楽しませ、地理学者の伊能忠敬が、西洋医学や蘭学を志
す者が、明治維新の立て役者たちが通った近代日本の夜明けの道だといえる。
ドイツ人医師で博物学者のケンペルは『江戸参府旅行日記』で、シーボルトは『江戸参
府紀行』で街道沿いの自然や農村の様子を書き残しているが、二人とも石炭使用のことに
ついてふれている。西洋版画の祖といわれる司馬江漢も『西遊日記』で、当時の石炭風呂
や石炭採掘の様子を描いてとにかく臭いといって嫌っているが、筑豊ではこの頃から石炭
使用がかなり日常的になっていたことがわかる。
石炭は江戸時代に五平太と呼ばれ、石炭発見にはいろいろの伝説があるが、文献では文
明一〇年(一四七八)、筑前遠賀郡香月村畑部落にある金剛山で、土地の者が黒い石を掘
り出したがよく燃えて悪臭があり、畑城主杉七朗太夫興則はこれをかがり火に利用したと
書かれている。
貝原益軒は『筑前続風土記』のなかで、「燃石、遠賀・鞍手・嘉麻・穂波・宗像の処々
の山野にて有之、村民是を掘りて薪代わりに用う。遠賀・鞍手殊に多し。頃年粕屋の山に
ても掘る」と書いている。
この石炭は、当初の頃は民家の燃料として利用されたが、やがて漁労のかがり火にも使
われ、窯業、製塩、鍛冶などの工業用にも利用されるようになっていった。ちなみに製塩
用の石炭は、幕末の頃は製塩用に木が伐られ丸裸の風景だったという瀬戸内の島々に、現
在の美しい松の緑をもたらし風光明媚の瀬戸内海をとりもどさせたという。
天保改革以来、各藩では農民の窮乏と財政立直しに力を注いできたが、天保八年(一八
三七)筑前藩は石炭・鶏卵・生蝋(ろう)の三物産を一括して取り扱うための「仕組法」
を採用し、その取締所を設け各山元取締を置き、石炭採掘・販売を専売としたが、豊前藩
もこの制度を実施することになり筑豊に石炭産業が起こった。
この石炭は、川ひらたと呼ばれる底の平たい船で、芦屋・若松に山元から運ばれ、天保
年間五〇〇〇隻・明治一八年には九〇〇〇隻の炭船が遠賀川を上下していたといわれ、奈
良・平安の時代から遠賀川はまさに物資の道であった。


モダニズム

筑豊という呼び名が生まれたのは明治になってからである。明治一八年に遠賀・鞍手・
嘉麻・穂波・田川の五郡の同業組合が大同合併して五郡炭鉱業組合(後に筑豊石炭鉱業組
合に改称)ができた頃から、この地域は筑前と豊前の頭文字をとって筑豊と呼ばれるよう
になった。
日本の近代化を支えてきた石炭産業の歴史は、そのまま日本の歴史である。世界の中の
日本であるために、明治政府の工業立国の政策と需要の拡大によって、あるいは筑豊ご三
家といわれた麻生・貝島・安川などの努力と創意によって、また中央の三井・住友・三菱・
古河など大手の大規模な進出によって、我国最大の炭田を抱える筑豊の百年は決定づけら
れた。
明治二二年、筑豊の石炭業者が出資して筑豊鉱業鉄道会社が設立され、二四年に若松〜
直方間、二六年に直方〜飯塚・直方〜金田間、二九年には豊州鉄道によって行橋〜伊田〜
後藤寺間というように相次いで鉄道が整備され、その後も筑豊各地には網の目のように鉄
道網が張り巡らされ、やがて筑豊の石炭産出量は飛躍的に伸びることになる。
日清戦争で急成長の波に乗った筑豊の石炭界は、一〇年後の日露戦争でさらに飛躍する。
ちなみに、全国出炭料が一〇〇〇万トンを突破するのは明治三六年であり、大正四年には
二〇〇〇万トン、大正八年には三一〇〇万トンを突破するがいつも半分が筑豊炭であり、
筑豊は日本が必要とする石炭エネルギーの半分以上を、実に一世紀にわたって供給し続け
たのであった。
そして一方で、炭坑は多数のくの貴い犠牲者を生んだ。炭坑の毎日は事故との戦いであ
り、数知れない負傷者や死者を出した。まさに、その犠牲者の上に日本の近代化があった
といえる。それは国のための戦争というもので、坑道が深くなるにつれて災害も多様化し、
明治末年からの炭坑災害事故は年々増加の傾向を辿った。
炭坑の災害事故は、不意の出水・ガス爆発・落盤・鉱車事故などで、大正三年の我国最
大の死者六八七人を出した三菱方城坑のガス爆発事故を筆頭に、数十人から数百人の死者
を出した事故だけでもおびただしい数に上り、落盤・鉱車事故など日常的に起きる事故は
報道されることもなく、昭和四〇年山野炭坑で二三七人の犠牲者を出すまで続いた。
今、筑豊に炭都と呼ばれた昔日の面影を探すのは難しいが、石炭産業によって遠賀川流
域の豊かな穀倉地帯の景色は一変した。一時は九〇〇〇隻以上もあった川舟に代わり黒い
煙を吐く蒸気機関車が走るようになり、同時に数万人ともいわれる川筋船頭の職を奪い、
遠賀川の水は黒く濁りぜんざい川と呼ばれ、全国から大勢の人を集めながら二四時間稼動
する真っ黒い街に変わっていった。
また、筑豊には中央の文化がダイレクトに入ってきた。大手の進出は、開国で外国の文
化をどしどし取り入れていた首都東京のモダニズムが、そのまま筑豊にやってきたといえ
る。いうなれば、ハイカラな人や珍しい物や新しい技術などが短時間にしかも多量に入り
込み、数百のボタ山とモダンな建物と長屋作りの炭住が同居する全国で最も活気のある地
方となった。
先の戦争で、炭坑には大勢の戦争捕虜が送り込まれていたからという理由が大きいと考
えられが、筑豊は日本最大の動力庫であったにもかかわらず米軍の空爆を受けることがな
かった。だから、忠隈・夏吉のボタ山以外にも、戦災をまぬがれた当時の建築物でかろう
じて炭都の面影を忍ぶことはできる。
ドイツ人技師の設計でドイツ製の煉瓦で造られたという方城の赤レンガの建物群、同じ
赤レンガ製の飯塚と田川にある巨大な煙突、全国的に有名な嘉穂劇場、和洋折衷の粋とも
いうべき旧伊藤邸や麻生邸、他にも筑豊各地には見事な建築物が残っている。
また、全国から集まった人々の舌が鍛えたといわれるお菓子などの食文化、炭坑の人々
に支持されてきたから続いているという祭りや獅子舞など多彩な民俗芸能、開放的で人情
味のある筑豊独特の風土や人物像など、筑豊には炭坑が生み出した有形無形の文化遺産が
さまざまな形で残っている。
そして今、二一世紀を迎えるにあたって筑豊は新しい時代を迎えようとしている。
世界が石炭から石油エネルギーに大転換した時代の波の中で、日本の一地方が受けた打
撃は想像以上に大きく、以来復興のために莫大な国費が投下されてきたが、押し寄せる大
波に翻弄されながらも健気に息をつないできたというのが筑豊の姿ではなかったろうか。
明治になって、筑前と豊前の炭坑協同組合が合併して筑豊という呼び名ができたという
のが歴史なら、江戸期以前の為政者によって分断されていたこの地域が、石炭という化石
時代に端を発する共通の価値観を得て結びついたのは、まさに歴史的必然があったという
べきだし、石炭産業がなくなり筑豊という名前を解消するのもまた歴史というものかもし
れない。
まだ、筑豊の地底には埋蔵料の70%の石炭が眠っているという。


posted by 映画プロデューサー at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | ふるさと筑豊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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