2009年06月21日

大和魂に優先する自分の魂が必要だと思うから

新しいカテゴリーを作った。

10年ほど前に、自分のふるさとである筑豊(九州・福岡県の一地域)をまとめた『筑豊原色図鑑』という本を作り、初版2万部を印刷して販売してきたが、もう200部ほどしか残っていない。

もう売るだけの冊数がなく、完全にロングテールの末端に位置するようになった。

で、思った。

全文をブログに公開しようと。

まず”筑豊のなりたち”から順次紹介していく。

こんな風に。


筑豊のなりたち

筑豊誕生

筑豊の歴史は、遙か人類誕生以前の太古の時代から、すでにそのスタートを切っていたのではないだろうか。

世界のエネルギー源が石炭から石油に変わるまで、日本の近代化を促し今日の発展の基盤を作ることに貢献した我国最大の動力庫〈筑豊炭田〉の存在の大きさを考えると、どうしても太古の時代まで遡ってしまいたくなる。

地球に生命が誕生したのが三十億年以上前、日本列島のほとんどが古生代まで海底にあり、中生代に一部が海面に現れ、新生代に大陸と地続きとなり、数度の氷河期を境に大陸とくっついたり離れたりしながら現在があるという。

このような地球的環境の中で、太古の筑豊は珊瑚礁の海だったようだ。

その証拠を香春岳に見ることができる。

白い岩肌がむきだしになった独特の山容を持つ香春岳は、珊瑚礁が気が遠くなるような年月を経て全山が巨大な石灰岩の塊になった山で、万葉集にも歌われ小説や映画でもたびたび取り上げられ全国的によく知られている。

また、今も赤村の谷川にはオオサンショウウオが生息し、筑豊各地の水田にはカブトエビが泳ぐが、どちらも数億年前の古生代の生きた化石だといわれている。

太古を代表する生き物が恐竜だとしたら、九州北部が中国大陸とつながっていたとみられる一億二千万年前の中世代白亜紀前期、筑豊には体長十数メートルもある肉食恐竜が咆哮していた。

平成二年二月、筑豊全体に流域を持つ遠賀川の支流八木山川の千石峽で、世界でも珍しいといわれる肉食恐竜(ワキノサウルス)の歯の化石が発見され、筑豊発のトップニュースはたちまち全国をかけ巡り、夏のキャンプシーズンでもないのに大勢の人々が手にトンカチを持って渓谷に押しかけた。

筑豊の火山活動も活発だったようだ。英彦山の岩にも当時の溶岩の名残りがあり、山田市の摺鉢山(帝王山)は火山だったという。庄内町の見上ゴルフ場造成の時には、古い火口の穴にブルドーザーがしばしば落ちて動けなくなったという話もある。

新生代第三紀、石炭紀の植物層とはだいぶ違っていただろうが、筑豊は大植物時代を迎えることになった。

日本の石炭のもとになったといわれるメタセコイアの巨木群が、遠賀川流域一帯を厚く覆っていたに違いない。

メタセコイアは筑豊のいたるところで見ることができる美しい大木で、巨木群が数千万年という時間を経て硅石から石炭に変化し燃える石となって、やがて独特の色の炎を放ちながら日本の歴史に登場してくることになる。

だが、地中深く堆積した太古のメタセコイアが、人間と相まみえるのはずっとずっと後のことで、まだ人類の歴史さえ始まっていない。

新生代終りの数百万年前、人類の最も古い祖先だと言われているアウストラロピテスクが現れ、数十万年前には、ジャワ原人や北京原人に続いて日本にも明石原人のような原人が存在したのではないかと推測され、四・五万年前、やっと現代人のような形態と能力を持った人間が登場してくる。

では、筑豊にいつの頃から人が住み、生活を営み始めたのだろうか。

残念ながら、まだ解明されていない。

ただ、穂波町久保白ダムの建設のとき、消滅する運命にあった森原の前方後円墳の調査が行なわれ、古墳の盛土から旧石器時代に属する石
器が出土して話題になった。

しかし、盛土は運ばれた土であり、何処の土を運んだかが不明であり、また、ただ一つの資料だけで旧石器時代を語ることはできない。



どういう風にブログに紹介していったらいいかよくわからないが、僕がブログに期待する気持ちに沿って、毎日、少しずつ小出しに紹介して行こうと思っている。

posted by 映画プロデューサー at 00:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ふるさと筑豊 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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