2009年12月12日

自分の才能をどこまでも信じるという狂気

昨日の寝がけ、”自分の才能をどこまでも信じるという狂気”というものが必要なのではないかと考えながらベッドに入り、そう考えながら朝起きて忘れてしまっていたらその程度の問題だろうと思っていた。

そう思っていたら睡魔が襲ってきて、おかげですぐに眠りに入ることができた。

朝起きると、ベッドから出る前に昨夜の想念が頭に浮かんできた。

「うむ、これは案外大事なことかもしれない」と思った。

同時に、「これは自分だけに通用することかもしれない」とも思った。

どこかで、自分の才能を信じていないからである。

T君もカミさんもそう思っているようだし、最大の味方であった母親も応援することにくたびれて次第にそう思っているふしも感じられたし、自分でもきっとたいして才能がないのだろうなと思うようになっていたし、それはみんな当たっていた。

でも、それじゃ生きられないとしたらなんとする。

この不景気で、この経歴で、この顔で、この年では、ハローワークに行っても仕事にありつけない。

どうする?

才能を過信してでも、突っ走るしかないのではないか。

それは口で言うほど簡単なことではない。

狂気がいる。

自分だけでなく、とても困難な次代に差し掛かっていると思っている。

教養や、知識や、知恵ですら、説得力を持たずに空回りしている。

今日、図書館で気になっていた【特別対談】「情報革命期の純文学」東 浩紀+平野啓一郎(新潮20101月号)を読んだ。

新春の特別対談で、長い割には期待はずれ(そう期待はしていなかったが)の対談だった。

編集部の狙いそのものが古い。

「情報革命期の純文学」なんて、タイトルがちっとも格好よくない。

古い編集部の企画に乗っかったお二人もおかしい。

衒学的ともいうべき難解な言い回しで、純文学をリードする若き旗手といった趣はなく、まるで純文学の講釈をたれる講釈師ようなたたずまいだった。

きっと、お二人は後で恥ずかしいと思われただろうが、もう、完全に新潮という雑誌の存在価値もないと思った。

対談の中で何度もドストエフスキーの名前が出て、ドストエフスキー好きの僕としては大いにうなずけるところもあったが、まさかドストエフスキーを日本の純文学という小さなカテゴリーで捉えているわけないよね、といいたくなるような対談だった。

若くて頭のいい、想像力もある物知りたちが空回りしている。

由々しきことだ。

才能のある人たちが空回りしはじめていて、これまでに評価されてきた才能というものが賞味期限が切れて、これまで評価されてこなかった才能が求められているのではないかと勝手に思い、”自分の才能をどこまでも信じるという狂気”という想念が必要なのではないかと考えたわけなのだが、これはとても恥ずかしいことでもあるのだ。

僕はとりあえず、ブレークスルーからマッドスルーの時代に差し掛かっており、頭で考えるのではなく五感第六感で事に当たる能力こそがこれからの才能だと考えている。

そういう意味での”自分の才能をどこまでも信じるという狂気”でした。




posted by 映画プロデューサー at 00:16| Comment(1) | TrackBack(0) | 聞かれちゃいけない独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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