2009年04月13日

映像コンテンツ業界のヒエラルキー(3)

テレビは映画に比べれば新しいメディアである。

かつては映画界に入れなかったからテレビ局に入ったという人が少なくなかった。

映画界からも多くの人材がテレビに流れていっているが、その多くは映画界で地歩を築けないままやむなくといった人が多かった。

何を言いたいかというと、映画と比べて新参者のテレビが”電気紙芝居”などと不当に貶められていたことがあり、それはテレビの登場によって映画界が壊滅的な打撃を受けた後もかなり長い間続き、その劣等感のような感情が多くのテレビマンに見受けられた。

その後、テレビそのものの社会に対する影響力が増大し、テレビ局員が他の一流企業以上の高給取りになっていくに従って単なる昔話になった感があるが、今のテレビ局の映画製作にかかわり方を見ていると”当時の劣等感がトラウマとなって残っている”のではないかと思うときがある。

映画に対するオマージュがなくて、テレビを作るように映画を作っている。

映画にかかわりがなかったテレビマンを起用し、あるいは映画に関わってきた者を従え、彼らを使いこなす態度に、内側から映画そのものを食い破るようなエネルギーを感じるときがあった。

そして今、そのテレビを食い破るような勢力が現われ始めている。

ネットやケータイの進化によって、雨後の竹の子のように増殖するマイナーメディアが巨大な象と化したテレビにとりつき、耳や鼻や尻の穴という穴からその体内にもぐりこんでいるような気がする。

おごれる者久しからずだが、マイナーメディアのリーダーたちは「動いていればよい」という考えで映像コンテンツに関わってきている。

懐かしい”電気紙芝居”ですらない世界だ。





posted by 映画プロデューサー at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞かれちゃいけない独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

映像コンテンツ業界のヒエラルキー(その2)

映像コンテンツは、映画、テレビ、ビデオ・DVD、BS、CS、ネット、ケータイなどのいわゆる各ウィンドウで一般に供されると思うが、映画の立場からすれば、あれこれ考えずとりあえず映画を作っておけばよかった。

だが、テレビ局が絡んだ映画を作るときは、テレビで放映するときのことを考えて作らざるを得なかった。

暗に要求されるし、要求されなくても自主的に当然のこととして捉え、画面のサイズや照明などに注意を払った。

それで映画のクォリティがあがるのならいいが、ほとんどの場合映画の特性がそがれた。

映画の場合はまず映画館にお客さんをどれだけ動員したかという興行収入の高が問題だが、テレビの場合は視聴率であり、DVDの場合はセルやレンタルでの売り上げが成功不成功を決める。

最近では、映画興行をを宣伝として捉えたDVD販売戦略が普通であり、DVD販売会社が製作に絡んでいるときは当然DVDが売れるように作らなければならない。

話題性のあるキャスティング、スタッフィングはもちろん要求されるが、何よりもDVD店舗の棚に区分けされているジャンルにはまる作品であることを求められる。

いや、ジャンルに分類されない企画は、作る前にまず没であるといってもよいかもしれない。

言いたいことは、映画とテレビとDVDはまったく異なる映像コンテンツなのに、他の放送・通信およびネット・ケータイまで加わって、それぞれのウィンドウが持っている特性を壊しているのではないかということである。

その伝で言うと、日本映画は限りなく映画でなくなっていると思う。

ハリウッドが3D映画に向かっているらしいが、いいか悪いかはわからないが、しゃにむに映画であろうとしているのではないか?

あがいているのでなければいいがと思いながら。




posted by 映画プロデューサー at 00:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 聞かれちゃいけない独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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