図体の大きい映画は、生き残るための無理心中を図っているのかもしれない。
今朝のテレビ朝日『サンデープロジェクト』を見て、自分のホームページに「テレビは熟れすぎて、すでに腐臭を放っており、そのうち溶解し始める」というようなことを書いたが、キネマ旬報9月上旬号で映画評論家の大高宏雄氏の記事を読んでその思いを強くした。
テレビが爛熟していて、実はもうすっぱくなり始めているのだが、その内外で甘い汁を舐めている人たちは完全に取り込まれていて、その人たちも含めてテレビは溶解し始めているといえるのかもしれない。
大高宏雄氏の「ファイトシネクラブ 日本映画の時代が来たのか(4)」記事より
@テレビ局主導の映画製作の活況は、明らかに日本映画への追い風だA単館作品にも、異色のヒット作が生まれており、中味も安定感があるBただ娯楽大作に内容空疎なものがある、これはなんとかしなくてはいけない
「日本映画の時代が来たのか」を@からCまで読むとわかるが、テレビ局主導の映画=娯楽大作であり、これは映画評論家の大高氏がどうこうできる話ではない。
「異色のヒット作」とか「中味も安定感がある」とかも曖昧な表現で、日本映画を愛する大高氏の苦しい立場がよくわかるが、「テレビをつくるように作った映画」を今更映画評論化が言及してどうなるのだといいたい。
後半に、テレビ局主導映画(製作プロは局と関係が深いテレビ制作会社)によって独立プロの存在が希薄になり、独立プロはとことん袋小路に追い込まれていると指摘しているが、こんな状況で日本映画の時代が来たりするわけがないではないか。
ここで、日本映画のことを云々するつもりはない。
映画評論家の出る幕がなくなっているのに、旧態依然の取り組み方で映画を論じようとしていることに大高さんが気付いていないことも歯がゆいが、批評を必要としないテレビ局が、映画の周辺で碌を食む人たちをも取り込みながら溶解し始めているということに関心がある。
「放送と通信の融合」という言葉は、「テレビが消滅する」とか「巨大メディアが崩壊」ではしっくりこなかったが、「テレビが爛熟して、やがて腐臭を放つようになり、そのうち溶解し始める」というイメージではよく理解できる。
テレビは腐り始めている。
もしかしたら、映画は自らが保有している重さを無意識にテレビに預けながら無理心中を図り、「YOUTube」などの玉石混交の動画コンテンツ共有サイトと連携して、映画としての質の回復をはかろうとしているのかもしれない、と密かに想像している。
断じて、「テレビのような映画」は日本映画ではない。
posted by 映画プロデューサー at 00:30|
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